「試みにあう」を考察

 

 今回、「試みにあう」に関して考察したい。

 

 「人間が試みにあった時」の「心理」を考えてみたいのだ。

 

  「試み」と言う単語は、日常会話の中で頻繁に使われる「言葉」ではない。普通は、「テスト」や「試験」の単語の方が日常的ではないだろうか。

 まず、 「テスト」や「試験」だが、学生が在学中に定期的に受ける「現在の学力を知る手段」としての「期末テスト」「学力試験」、あるいは、進学のための「高校受験」「大学受験」などが思い浮かぶ。

 また、資格を取得するための「資格試験」。就職するための「面接・筆記試験」。

 さらに、「美人コンテスト」や「俳優オーデション」などなど。

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 「人間が人間を選考する・評価する」手段として「試験・テスト」などが使用されるが、通常、「選考する人間」と「選考される人間」の間には、「個人的つながり」は存在しない。

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つまり、「選考・評価」の条件として

●「公正・公平・客観的」に評価する人間」

●「公正・公平・客観的」に選ばれる人間」

この2者が存在して、初めて「テスト」「試験」が成立する。

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 この「客観性が崩れる」と、選考自体意味がなく、「コネ」「縁故」で、「合否や評価」が決まってしまう。

 「公正性」「公平性」「客観性」が保たれている限り、「合否・評価」の結果が残念なことになったとしても、不合格者や落選者が、逆恨みすることはない。つまり、後まで『禍根』を残すことはないのだ。

 たとえば、大学受験に失敗した受験生が、問題出題者の教授に恨みを持ったり、国家資格に受からなかった不合格者が国や協会に逆恨みし、「仕返し」のために犯行に及んだといったニュースは聞いたことがない。

  「試されている内容」が、「能力・知識・技術・学力」など、直接「受験者の人格」に関係する要素でないので、「恨み」の対象にはなりにくい

 逆に、「受験者自身」が「選考基準に満たない自分の能力」に対して、自信をなくしたり、あきらめたり、奮起したりする。

 「テスト・試験の結果」が「 選考した人間」ではなく「選考されなかった自分自身」へ「効果」として及ぶ。

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今回取り上げる「試みにあう」は、上述の内容とは、意味合いを異にする。

 

今回の「試みにあう」を考察するにあたり、以下、聖書の聖句を引用することにする。

 

 新約聖書から

マタイの福音書 6章

9 だから、こう祈りなさい。

 『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
10 御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
12 私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』

——

Matthew 6  

“This, then, is how you should pray:

“‘Our Fatherin heaven,
hallowed be your name,
10 your kingdom come,
your will be done,
on earth as it is in heaven.
11 Give us today our daily bread.
12 And forgive us our debts,
as we also have forgiven our debtors.
13 And lead us not into temptation,
but deliver us from the evil one.

 

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これは、キリスト教の教会の礼拝時、「神への祈り」を捧げる際、礼拝に集うクリスチャン全員で唱える聖句である。

 

 分かりやすく言えば

「神へのお願い」である。

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今回の「試みにあう」の言葉は、赤い字がそれに当たる。

 

 日本語では、『試みに会わせないで』

 英語では、『And lead us not into temptation』

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この二者の関係は

●「神」

●「神を信仰する信者」

 

つまり、「信仰」という「強い信頼関係」でつながれている関係である。

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 前述の「テスト・受験」の「試み」と、聖書の聖句にみる「神と信者」の「試み」の相違点をみてみると。

 

●「公正・公平・客観的」⇔「信仰」

●「能力・知識・技術・学力」の選考⇔「信仰上の試練?」「誘惑?」

●「試み」を「受験者自身」が「申請」⇔「試み」を「信者」は「拒む」

●「両者に縁故・コネなし」⇔「信仰という強いつながり」

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だいぶ、様子が違う。

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聖書における「試み」に当たる英単語の「temptation」は、「誘惑」の意味に近い。

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 この2つの相反する「試み」を踏まえて、次に考えてもらいたいのが、以下のことである。

 

★「信頼している人間」から

★「誘惑」あるいは「試み」をうけると

★人間は、『どう感じるか?』

 

 

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 実際に考えてみると分かりやすい。

 つまり、自分のまわりの人間関係におきかえてみると、自分のココロの動きが「イメージしやすい」と思われる。

 

たとえば、

●「あなたの恋人が、あなたの本心を知るために、カマをかけてくる」

●「職場の上司が、架空の仕事を作り、遂行をすることを要求する」

●「牧師が、信者の信仰の深さをはかるために、難題をぶつける」

●「奥さんが、旦那の浮気の有無を知るために、芝居をする」

●「信頼している友達が、何かの利害関係から、作り話をしてくる」

 

などなど。

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 読者諸君は、「試す立場」でなく「試される立場」になって「考えてほしい」。

 

 もちろん、この場合、「試す人間」は、「試されている人間」に「ばれていない・知られていない」と思っている。また、「試されている人間」は、「試されていることを知っている」ということを前提とする。

 

 

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Thinking Time!  

(考える時間)

 

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考え終えた人は、次にお進みください。

(つづく)